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今日は、ちょっと、自慢したい気分なので。
お付き合いくださいね。
私の、自慢。
Vice-versaの
お客様。
長い時間をかけて創りあげてきた
お互いの信頼関係。
V-VをOPENして出会った方々も。
これから、そういったご縁になっていく予感。
であったのは、運命。
昔、アシスタントをやって
デビューして。
未熟なときから、シャンプーさせてもらったり
そして、伸び盛りの頃、
鬼のように忙しくしてたときも、
時に、
すっごくお待たせしてしまったこともある。。。
それでも、
そんな私でも、
ずっと応援してくれる方々。
私を信頼して
大切な髪を触らせて、切らせてくれる方々。
私の自慢です。
お友達にも、自慢するの。
「こんな、こんなお客様でね・・・」
お友達からすると、
「また出た。
mikaのお客様自慢。」
だって。
・・・っていう、そのお友達も
お客様なんですケドネ(笑)
本当に幸せだと思います。
好きな仕事で、ご飯が食べられて
そして多くの人々に出会って
いろんな経験をして
話をしたり、聞いたり・・。
人生の時間をともに過ごしている。
場所は別々だし、
しょっちゅう会うわけじゃないけど、
でも、私は、その方の歴史を
確実に一緒に歩んでる。
肩書きも、社会的地位も関係ない、
一対一の関係。
結構親密だ。
だから、私も、
美容師という役割より、
「髪をお世話させていただいているmika」
という認識だ。
お客様の赤ちゃんや、お子さんを
勝手に
甥っ子や姪っ子のような気分で見てる私がいて、
お客様の親御さんを
勝手に
親戚や、もしくは親友の親御さんのように感じている私がいる。
たくさん「家族」みたいだー



なんて、贅沢。
そして、皆さん、
ステキに個性的でいて
かわいらしくて、人間らしくて
ステキに大人で、
ステキに気配りが出来る
心の温かい人ばかりで、
たまによく考えると、驚きます。
ステキな人って、世の中本当にたくさんいるんだって。
そんな方々にご縁あって接することができて
本当に、感謝します


現在、私を取り巻いてる全てのことに!!
私の、自慢は
ざっと、こんなことです。
秘密の本に書いてある。
「満たされること」
「満たされること」で、
自分の必要とするものは引き寄せられる。
ソレは、気持ちのもちようだと。
確かにそうだ。
半分のコップを見て、
「もう、半分しかない」
と思うのか、
「まだ、半分もある」と思うのかでは、
大きく違う。
状況は同じでも、
後者は、「満たされる」感じ方をしており、
前者は、いつまでたっても「満たされない」のだ。
一本あっても、「もう、一本しかない」
二本あっても、「二本しかない」
10本あっても、「10本しかない・・・」
結局、キリがないのだ。
その反対に、後者の感じ方は、
常に余裕がある。
「まだ・・・だ」
「こんなに・・・がある」
よく言われる、
「賭けで勝つのは、
余裕のあるもの」
これは、そういう意味だろう。
心に余裕があるもののところに、
豊かなものは引き寄せられる。
それは同じ周波数を出しているから。
・・・なるほど。
目には、花、
唇には歌、
心には太陽を。
どんなときも、
どんな状況でも、
希望を忘れない。
「満たされる」私。
雨フル台風の夜に、
考えたこと。。。
ミライは、想像力だ。
実際まだ「成って」いないから、
どういう風にでも想像できる。
そして、
どのようにでも創っていくことが出来る。
「想像」したように「創造」できる。
「創造」=(イコール)「想像」なのだ。
まずは、「想像」ありき。
すごい、
ソウゾウ という音は、
そういう意味を含んだ「オト(音)」なのだ。
ソウゾウしてソウゾウする。
おもしろーい~~^^
日本語って面白いなぁ^^
私は、ステキなミライをソウゾウする。
そう、明日が来て、
「今日」をせいいっぱい生き、
そしてまた、
「明日」をワクワクソウゾウして
ソウゾウする。
その連続だ。
ミライは続く。
私の生きる限り。
私は生きる。
まだやるべきことが
終わってないから。
ミライを、
ソウゾウしたいから・・・・
よかった。
本当によかった。
観終わってから私たちは、
何度この言葉を口にしたことでしょう。
夜の12時に、
地下鉄に向かう私たちの
足取りの軽いこと、軽いこと。
キャリー、ミランダ、シャーロット、サマンサの4人は、
確実に私たちに元気をくれた
この映画は想像していた以上に
よかった。
これが、私の感想です。
LOVE
この映画のテーマ。
いろんな愛の形がある。
無条件に相手を受け入れること。
ソレが愛の本質だと、私は思っている。
「あばたもえくぼ」
そういう心理状態で相手に接していることを
すなわち「愛している」というのだ。
好きなものは好き。
理由なんてない。
ソレが「愛している」ということだ。
理屈や条件で好きになるのは、
「愛してる」ではないのだ。
そのひとが、
たとえ自分にとって不利益な過ちを犯したとしても、
最終的には
許せること。
ソレを
「愛してる」
というのだ。
しかし、「愛」は
ある意味「エゴ(利己心)」の真逆に位置する。
「エゴ」は、「感情」という手下を従えており、
自分を支配する
もっとも強力なパワーだ。
この映画では、その二つの思いによる葛藤が、
「愛」が成就するまでのプロセスが
特にキャリーとミランダを通して
描かれている。
その葛藤に打ち勝って
パートナーに対する「愛」が芽生えはじめると同時に
二人は、
輝くように美しくなっていく変化が、
スクリーンに映し出される。
圧巻だ。
すばらしい。
失恋によってこころを打ち砕かれた女性の
地球の終わりほどの
失意の表情。
ツヤもハリも失って、10年も老け込んでしまったような
女性の顔。
ソレも、本当にリアルに表現されている。
観ている私たちの胸が痛くなるほど。
つらい、つらすぎる。
本当に女性を知り尽くした映画だ。
「人を肩書きで判断するのはやめよう、
条件なんか関係なく、
そのヒトはその人であるだけなのだから。」
キャリーの最後のセリフ。
私は私。
私はあなたを愛してる。
あなたは、あなた。
あなたであるから、
愛してる。
そういうことだ。
愛し合う関係には、
シゴトも社会もキャリアも、
関係ない。
ただ、「愛」が
存在しているだけ。
ただ、それだけなのだ。
「やっぱり、そうなのよねー」
私は、ソレをこの映画で確認し、
ソレは、世界各国共通の真理であることを悟り、
大いに共感
やはり、世界が熱狂するには、
ちゃんとそれなりの根拠があるのだ。
やはり、その中捨てたモンじゃない。
LOVE
「女性は、NYに二つの‘L‘を求めて
集まってくる。
LABELとLOVEだ。」
私は、この街で
2つの‘L‘を、
手に入れたかしら???
世の中、なんでも
ごちゃ混ぜになっている。
良いも悪いも、
キレイも汚いも、
みーんな
ぜーんぶ
ごっちゃ混ぜ。
なかなか見極められないんだ。
いろいろ絡み合って複雑になってきているから。
すごく昔は、
大地と天気と家族と、あってもご近所くらいだっただろう。
今は、瞬時に
たとえば地球の真裏の国の情勢まで
この日本のいち「私」の生活に入り込んできたりする。
これは、すごい「複雑化」で「スピード化」だ。
本来、「人間級」のスピードではない。
だって、「音」「光」級
なのだから。
人間なんて目がまわっちゃって
ついていけるわけがない。
ソレが、あまりにも発達しすぎたら、
人間がおかしくなるに決まってる。
それに、何を基準としたらいいか
わからなくなっている人も多いのかも。
さまざまな意見が飛び交いすぎて、
情報が多すぎて、
惑わされてしまう。
自分が
「これはナシだろ」って思っていても、
誰かが、
「これってアリだよね」って、たとえば強く言ったり、
たとえば、
より多くの人に言われたりすると、
「あれ、これもアリなのか?」
と思ってしまう。
そうなっている人が多い、
ような気がする。
どうカテゴライズしたらいいか、
複雑すぎて分からなくなってきちゃったから、
とりあえず
放っておくことにしている
そんな感じだ。
ホントは、そこでじっくり考えたり、
関係者で集まって実体込みでディスカッションしたりが大切だけど、
とりあえず
時間もないし、
対象の人たちが広すぎて、くくれない。
考えるのも、めんどくさいし、
考え直して考えてみたとして、
一生懸命考えると、最終的に自分の影響の及ばないところまで行ってしまったりするから、
訳がわからなくなって、
放棄した、
・・・という感じだ。
もう、誰にも止められない。
あたまの良い人たちが、
自分の頭のよさを誇る為、
自分の力を試すため、
競争をし、
訳もわからず、
新開発をどんどんしている、
競争相手と自分という
狭い視野で、
とりあえず、
色々考え出したら複雑だし、
めんどくさいから
わざと視野を狭めて、
いま、とりあえず自分たちが「勝つ」為のことを
正当な理由をつけて
もしくは、正当な理由なしに、
出したモン勝ち、
やったモン勝ち的に、
勝手にゲームを引き起こし、
関係ない人を
いっぱいいっぱい
巻き込んで、
進んでいく。
主導権を誰も握らないまま。
主体を誰ももたないまま。
そして、
最後には、
誰も収集がつけられなくなって、
さらには、絡み合いすぎて、
責任の所存がわからなくなって、
「おまえも、やっただろ」
「おまえだって、いいって言ったろ」
「お前だって、楽しんでただろ」
「・・・・」
あきらめたまま、
なすがまま
野放しにして
それを立ち尽くして
とりあえず無表情で観ている、
そんな感じだ。
誰のせいでもあり、
だれのせいでもない。
とりあえず、
なすがまま。
昔から、地球はごちゃ混ぜ。
ソレはきっと変わっていないんだ、
いろんなものが、すんでるし、
いろんな役割があって
それぞれが生きてる。
人間も、昔からいろんな人がいるし、
いろんな考えがあって、いろんなことが起こっていた。
その本質は変わっていないはず。
なぜ?
なぜ、今
ごちゃごちゃ、複雑と感じるんだろう。
考えた。
距離が近すぎるからか。
世界の距離が近くなりすぎた、
何でも知りすぎ、
何でも観られすぎ、
しかも、関係ない人にまで、
そのなかに子供なども含まれる。
まだ知らなくていい人、
知る必要ない人にまで、
サービス過剰に、
容易に、安易に
情報が流れすぎるからだ。
そして、
干渉しすぎ。
関係ない人が
そのことに、口を出しすぎ。
わかりすぎるから、
言いたくもなる。
思いやりでもあるという、理論まで成り立つ。
しかし、昔の人は
「神の思し召し」といって、
人の力の及ばないところがあることを、
人は知っていたし、大事にしていた。
自然のバランスで、
全ては必要なように保たれるようになっていることを
知っていた。
というか、「人間」も、そういう地球の一部だということを
自覚していた。
でも今は、「発達」がゆえに
「人間」の力で何でもなると思っていたり、
何でもしようと、力ずく。
そう、力ずくだ、
そういうところが、多すぎ?
だから、不自然だ。
そして、お互いの必要な距離を犯し、
その結果、
過干渉で、過敏になっている。
だから、自分で選ぶことだ。
お仕着せの人の価値観ではなく。
自分で、自分の正しいと信じる「価値観」を育て、
ソレを判断の基準として
自分の責任において、
自分が選ぶ。
私は、今、
本当にそれが大切な時代だと思っている。
それに、そう訴えている人たちが本当に増えている。
情報を参考にしてもいい。
でも、最終的には、「自分が選ぶ」のだ。
いいものも、悪いものも、
ごちゃ混ぜで、しかも、
確実にわかりにくくなっている、
この世の中で。
すべて 高度になっているのだ。
だから、自分を磨き、育て、
そして信じる。
決して、自己満足な判断ではなく、
古今の幾多の賢人の語った言葉を取り込み、
歴史を学び、
人間を知る。
そうやって、価値判断の基準を育てる。
自己の「モノを見極める目」を養い、
「真実を聞き分ける耳」を養い、
ほんとうに「人間しての自分に必要なモノ」を選び取る「味覚」「皮膚感覚」
嗅ぎ分ける「嗅覚」を持つのだ。
そうやって、ていねいに大切に
自分を育てる。
今の世の中、そういう自分でしか、
なかなか対応しづらいような気がする。
他に依存するのではなく、
言い訳しない
言い訳できない
真に迷いなく力強い
何によっても傷つけられない「自己」の本質
魂の強靭さを自覚する時代。
「真の自己」が
試される時代なのだ。
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S | M | T | W | T | F | S |
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30 | 31 |
♪なりたいあなたになれるわ~
♪その気持ちを大事にしてぇ~(私の気持ち)